流れ 流れて

 それは雲のお話。

 ぼくは雲。小さな雲。パパとママは大きな雲です。空には、ぼくたちのような親子もいれば、ずっとひとりでふわふわしているものもいます。また、ずっとふたりきりでふわふわしているものもいます。
 ちょっと前に、お兄さんに話しかけられたことがあります。
お兄さんだとわかったのは、雲の男性の証である尻尾がついていたからです。ちなみに、雲の女性の証は、お腹のところに渦を巻いていること。
「ねえ、きみ。いつもパパとママがいていいね」
「いつもいっしょにいるわけじゃないよ」
「どうして?」
「どうしてって、ぼくにはわからないよ」
「おれは、ある朝目が覚めたら、ひとりきりだった。両親はおれをおいてどこかへ行ってしまった。ああ、きみがうらやましいよ」
「ぼくだって……」
 最後まで聞かずに、お兄さんは、ぼくをうらやましがっているとだけ伝えて、ぼくの元を離れていきました。
 ぼくにはパパとママがいるけれど、ひとりぽっちです。ふたりはいつも仲が良くて、いったい何をしゃべってるのかと思うほど、話してばかりいます。それで、一人っ子のぼくはそっちのけにされます。
 きっと、そんなことは見かけだけじゃわからないのだな。お兄さんはぼくをうらやましがりながら、実は、奇麗な渦を持っている彼女がいるのかもしれません。
 だいたいは、パパとママがどこにいるかはわかります。わかっていても、例えば、話し声が聞こえる距離にいても、寂しいということには変わりません。
 ぼくには学校でもどこでも、友達と呼べる人がいないから。ぼくをうらやましがるお兄さんのように、話しかけてくれる人はいっぱいいます。でも、ぼくは自分からうまく話すことができません。どこか臆病なのかもしれない。余計なことを言って、食べられてしまってはいやなんです。びびってばかりいるので、おかげでやむなく孤立してしまいました。
2人がいつも何を話しているのか気になって仕方ないので、ある日、聞いてみました。
「何をそんなに楽しそうに話しているの?」
   話しかけたのが久しぶりだからか、ママは不思議そうにぼくの顔を覗きこみました。
「教えてほしいの?」
 すぐに教えてくれないいじわるなママ。でも、こういうのがママなんだと思うよ。なぜって、パパは「いじわるなママがすき」って言っていたから。いじわるなママとおっとり屋のパパでうまくいっているのです。
「教えてよ、ママ。お願い」
 今日は機嫌がいいらしいね。ぼくのお願いが利きました。
「あのね、夕べ見てきた下の街の話よ」
 夕べ、2人の姿がないと思ったら下に降りていたんだ。ママが見てきたと言えば、必ずパパもいっしょということ。2人はいつも行動を共にしています。
「ぼくも行ってみたいな」
「何言ってるんだい、おまえには、まだ早いよ。それはそうと、宿題やった? 早く済ませて、おやすみなさい」
 説明を逃れるには、たいてい宿題のことを口にします。今の雲の学校には宿題がないということを、すっかり忘れているのです。
 ちなみに雲の学校では、小難しいことなんて習いません。実用的なことばかりです。例えば、いかにして流れいくスピードを自由自在に操るか。また、いかにして風の流れに逆らうか、というものもあります。
以前、今は宿題なんてないんだよと告げたら、
「ママの時代には宿題があって、家に帰ってきてそのまま遊びに行こうものなら、父親からこっぴどく叱られたものよ。ああ、宿題がないなんて、いい時代になったものね」
なんてにらまれます。宿題がなくても、予習復習はきちんとしなさい、といわんばかりに。
「わかったよ。ちゃんと、勉強するよ」
 そのことばを聞くと、ママは自分の定位置に戻ろうとしました。
「ちょっと待って、ママ。下の街の話、少しでいいから聞かせてよ」
「おまえにはまだ早いわよ」
 そう言ってママは戻っていきました。すると、がっかりしているぼくの正面にパパが現れました。ママといっしょに戻ったと思っていたので、驚いた顔をしたら、
「そんなにびっくりすることはないだろう? 下の街の話を聞かせてあげようと思ったのに」
「え、ほんと?! うれしいな」
「だけど、ママにはないしょだぞ。あいつは、まだ早いって言ってるんだから」
「ありがとう」

「下の街というのは、まるでママのジュエリーボックスのようなんだよ」
 パパは話はじめました。
「何もかもがきらきらと光っているんだよ。上の街、つまりここ雲の世のように、白い絨毯なんてないしね」
下の街がきらめいているというのは、ぼくたちが降りていって(雨を降らして)そして、その雨粒がきらめいている。そういうことだと後で気がつきました。
「こっちとちがって、たいていのものは生き生きしてるんだ。くたびれているものや、眠りつづけるもの、無表情なものなどいないのさ」
 こっちには自らの力で動こうとせず、ただ風に流れ流されていくのを待っているだけ、という怠け者もいるのに。
「向こうでだれかと話をしたの?」
「いや、だれとも話さない。パパとママは、ただ見てくるだけで十分だったんだよ」
「どうして?」
「それだけで、とても楽しいし刺激になるからね。特にパン屋とクリーニング屋というのが面白かったよ」
「ふうん」
 ぼくはちょっとわかりませんでした。下に降りることができたら、きっとだれかと話をしたい(できる)と思っているから、見るだけで帰ってくるなんてもったいない気がします。
 パパはぼくの知りたかった肝心なところを教えてくれないまま、ママの元へ帰っていきました。
「この話は、くれぐれもだれの前でも口にするなよ」
「わかってるよ。だけど、どうしてぼくはまだ早いの?」
 ママには聞けなかったことを、パパに聞いてみました。パパは答えるのを渋っていました。でもようやく、
「それはね、またここへ戻ってくるだけの体力がおまえには足りないからだよ。下へ降りるのも大変だけど、戻ってくるのはもっと大変だ」
「そっか」
「くれぐれも勝手なことはしないように」
 そう言って、パパも帰っていきました。

 下の街についてパパが教えてくれたことは、ほんの少し。そのほんの少しが、どんどんふくらんでいきました。
 例えば、白い絨毯がないなら、地面はどんな風になっているんだろう。何色かな。ここみたいにふわふわかなあ。それとも、ごつごつしているのかな。とか。また、何もかもがきらきらと光っているって、どんなにきれいなんだろう。それってまぶしくないのかな。とか。
調べようにも、学校の図書館には下の街についての本など一冊もありません。そこで、昼休みに、どうにかあいさつだけは交わすクラスメイトの女の子にたずねてみることにしました。ぼくは、彼女がクラスの中でいちばんきれいな渦を持っていると思っています。だから、あいさつぐらいしかできないけれど、ちょっと彼女のことがすきなのです。
「おはよう」
「あ、おはよう」
「ぼくね、ちょっときみに聞きたいことがあるんだよ」
「なにかしら?」
「えっと、あの、あのさ、下の街って行ったことある?」
「え?」
「下の街」
 聞いたことないのか、聞いたことはあってもおかしなことを言っていると思われているのか、彼女はきょとんとしています。
「それがどうかしたの」
 はじめて話しかけたからか、ぼくはドキドキして胸が張り裂けそうです。
「あ、ごめんなさい」
 どうかしたの、ということばがぐさっと刺さり、思わず謝ってしまいました。
「何、謝ってるのよ。あ、もしかして、下の街に行きたいの?」
「うん」
「親が楽しそうに話しているのが気になったから?」
「そう! どうしてわかったんだろう」
「あたしも親の話がうらやましかったからよ」
「そっか。でも、行ってないんだっけ?」
 向こうの方で、彼女の友達らしき人(ずっとこちらを見ているので友達かもしれないというだけ)が待っています。早く話を切り上げなくては。
「行ったわよ。だけど、もし行きたいと思ってるなら、よした方がいいよ」
「どうして、なの?」
「きっと、がっかりするだけだから。あたしは、期待外れだったって思ってるの。……じゃあね」
 そう言って、彼女は友達らしき人の元へ行ってしまいました。

 行かない方がいいと言われても、ぼくの気持ちに変わりはありません。イメージがあっという間に大きくふくれていきます。
 もうたまらなくなって、だれにもないしょで下の街へ降りることにしました。たぶん、あとからこっぴどく叱られるんだろうな。まあ、しょうがないや。いつになったらOKが出るか、わからないしね。
 さあ、行こう。今日も、またパパとママは遠くにいます。
 さあ、今だ。ぽと、ぽとん。ぽとん、ぽとんぽとん。ぽとぽとぽと。
 ぼくは雨になって、いっぱいのしずくになって、あちこちに水たまりをつくって。
 あ、地面はふわふわしていません。ごつごつっていうのではなくて、なんだかかたいな。ぼくは地面に吸い込まれていきません。ただ、地面に広がっていくだけです。
 なんだか想像していたのとは、ちがうな。どこもきらきらしていません。うす暗いです。その訳は、後からわかりました。ぼくが未熟だったから、しずくは光ることができなかったのです。ぼくはうす暗くなって、そして、下の街に降りてしまったのです。
 小さな男の子が水たまりで遊んでいます。黄色い長靴はいて。ピッチピチピッチピチ。とても楽しそうです。ぐるぐるまわったり、足踏みをしたり、しています。ぼくはまだ、そんなに大きな水たまりをつくれません。でも、男の子の顔はぼくに映っているみたい。
ぼくは、彼に話しかけることなどできませんでした。そんなことをしたら驚かせてしまうと思ったからです。パパとママが見てきただけ、と言っていたのがよくわかりました。
「ね、おかあさん、おかあさん」
 少し先から、すらっと背の高い女性が小走りでやってきます。
「どうしたの? あ、また水たまりで遊んで。ぬれてしまったらどうするのよ」
「これは、小さいからぬれたりはしないよ」
 両手いっぱいに買い物袋を提げている母親を、水たまりぎりぎりまで近づけて、
「ほらみてよ、ボクが映っているよ」
「え? ああ、ほんとね」
 そっけないおかあさんのことばに、男の子はがっかりしたようです。
「もう、帰るわよ。いつまでも遊んでちゃいけないわ。そうそう、サトル、宿題まだだったでしょ」
 そう言われて、男の子は母親に手を引かれて渋々帰っていきました。
 気がつけばうす暗さが増してきました。
 目についたパン屋とクリーニング屋も、閉店です。店が閉まると、この街は静か。ぼくがいると余計にもの悲しくなるでしょう。遅くまで居座って、帰れなくなっては困ります。この地域だけ、ずっと雨が降っているなんて大迷惑。 

 そろそろ帰ろう。いっぱいのしずく、あちこちの水たまりになった分身たちを呼び戻し、そして、近づけます。なかなかすぐには集まってきません。少し時間がかかるようで。四苦八苦していると、ちょうど目の前に、見覚えのある長い尻尾がありました。
「ほら、早くつかみなさい」
 パパが姿を変えずに、ここまで降りてきたのです。ぼくのことが心配になったのでしょう。
「ぼく、ぼく……」
 いいつけを破ってどやされるんじゃないかと思っていたから、ちょっぴりこわかったのです。
「もう、いいから。帰ったらゆっくり聞くから、早くつかみなさい」
「うん」
 パパの尻尾はもちろんふわふわしているのに、手からするりとすりぬけてしまうことはありません。パパの姿を見たぼくは、あっという間に、分身たちがみんな集まって、元の姿に戻っていました。
 ゆっくりゆっくりと、ぼくを連れてパパは空へ上がって行きました。雨上がりの下の街には、きれいな虹がかかっているのが見えました。
 いつもの場所に帰ってきました。ここがいつもの場所だとわかったのは、(もちろん雲でできた)大きな木がそびえ立っているからです。
「おかえりなさい」
   そこには、ママが待っていました。怒られるのかと思ったら、
「ちゃんと無事に帰って来てくれた安心したわ。本当にママは心配したんだから」
 そう言って、ぼくをぎゅっと抱きしめました。それを見ていたパパは、
「下の街はどうだった?」
 ぼくにたずねてくれました。
「勝手に降りてしまってごめんなさい。でも、おもしろかったよ。小さい男の子がね、ママに『宿題やりなさい』って言われてたんだ」
「そうか、そうか」
 ママの腕の中を離れたぼくを、今度はパパが抱きしめて、頭をなでてくれました。
「また、行ってみたいか?」
「うん、だけど。やっぱりぼくには早かったんだね。ひとりで帰ってくることができなかったよ」
「じゃ、あしたからでも学校から帰っていたら、特訓しようか?」
「どんな?」
「いっぱいのしずくや水たまりに分身するのは、できただろう。だから、元の姿に戻る特訓だ」
「わあい、楽しみだなあ」
 ぼくは、わくわくして旋回をしていました。久しぶりにする喜びのポーズでした。