夜桜に吹かれて

 走り出しましょうよ。全速力で。そうすれば、この大きな壁だってきっ
とぶち壊すことができるから。信じていなければ、何も始まらない。教え
てくれたのは、思い出させてくれたのは、そう、あなただから。
 
 好きではないのです、春の雨。なぜ。ただでさえ早く散りいく桜が、ま
すます早く散ってしまうから。濡らした桜の花びらたちは一歩一歩目につ
いきます。その花びらを踏んづけてしまうのが惜しいから。きれいと言わ
れる時は短すぎて。わかっていてもどこかでわからないでいたいこと。気
づかないふりをしていたいこと。それが、雨に正直になれよと誘われる。
誘われたままに正直になってしまうから嫌いでもないのです、春の雨。そ
ういえば、あの晩は激しく雨が降っていました。
 そういえば、あの日は朝からずっと雨でした。傘を忘れたミカは少々濡
れてもかまわないと思っていた。風邪をひかない程度なら、熱にうなされ
ない程度なら。朝の天気予報は終日雨と知らせていた。その知らせに耳を
塞いで。耳を塞ぐなら、始めから聞かなければいいのだけれど、只知らず
にいるのと、知っていて知らないようにしているのと。
 ずっと賑わう街を見慣れているはずなのに、ミカはよく違和感を覚える。
誰かといてもひとりでいたら尚更。こんなに賑わっている街。遠い遠い夢
か幻か。時に、この賑わいにどっぷりと身を沈めるなんてことができると
きもあるが。このなんともいえない気分は違和感というよりは何か実感が
伴なわない気分とでもいうべきか。それはもしかしたら、だれしもが抱え
ているコンプレックスをミカは人一倍強く抱えているせいなのだろうか。
 
 待つということのせつなさを。それがバスであれ、仕事であれ、何かの
イベントであれ、大切な人との約束なら尚更。痛いほどせつなさを、身が
裂けるほどせつなさを、感じる。誰かを待たせていて、もしそんな思いを
抱かれていたら、そう考えるだけで、胸が痛む。だから、待たせるよりも
待っている方が、すき。待っている姿を見つけるよりも、見つけられる方
が。それなのに、待たせてしまうことが時々ある。そんなときやりきれな
い後悔が勢いよく全身を襲う。

 シュン。ミカの、同級生だけど憧れの人。片想いでした。夏になったら
いっしょに。そんなことばが実現する間もなく、あっという間の時でした。
只、春の陽気に身をまかせ、どっぷり熱病にかかっていたのかもしれませ
ん。でも、決してその熱病は苦しくありませんでした。悪夢のような金縛
りのような。うなされることは何度もあっても。
 ずっと遠くからみとれていました。女からの告白がタブーだと知っては
いても、この気持ち押さえられずに。押さえられず、手紙でも電話でも言
わなくて、直接、顔を突き合わせて、告げたいなんて思ったのは真夜中、
雨の降りしきる音を聞きながら。
 
 ちょうど近所の桜が色づき始めた頃、ミカは勇気を振り絞って、シュン
に想いをぶつけた。この時を逃がすと、もうチャンスがなくなってしまう
のではないかと、焦ったのかもしれない。
「今日の放課後、クラブ、ないよね」
「ああ。今日は火曜日だから休みだよ」
「ちょっと、ふたりっきりでね、話したいことがあるの」
「今、ここで、じゃだめなのか」
「えっと、あの、ね。ふたりっきりになりたいの」
「わかった」
「じゃ、3時30分に、学校の裏の公園で」
「わかった」
「来るまで、待っているから」
 いつもにもまして、授業に身が入らない。今日の内職は、手紙。直接、
想いをぶつけるのだが、それだけでは、伝えきれないもの、伝え損ねるも
のがでてきてはいけないから、手紙。あとから考えると、手紙なんて、こ
の時が最後だったと気づく。現在進行形の恋に手紙が浮かび上がるかもし
れないけれど、少なくとも、今の恋に出会うまでは、この頃の手紙以来、
手紙というものを書いていない。正確にいうと、渡すことのできた手紙と
いうこと。そういえば、この頃以降、一度だけ、渡すことのできなかった、
渡すことなどできるはずもないとわかっていながら、でも、想い人に宛て
て書いた手紙、ひとつ。そして、それは、捨てられることもなく大事そう
に今も、守られている。糊付けもしてある。封じ込められた想いのすべて
が。
 心地よいBGMとなっていた物理の授業中に、想いをぶつけた手紙が完
成した。恥ずかしいのを承知でその一部を。

 シュンへ
 もしかしたら気づいていたかしら。ミカがずっとシュンのこと見てたっ
て。同じ年なのにいつもいつも、ミカはシュンが大人に見えました。ティ
ーンエイジャーの頃はずいぶんと背伸びをしたがる時期と聞くわ。かなり
年上のような印象を受けるのは只ミカが幼すぎるからかしら。どうか恋人
になってなんて言わないから、お友達から始めませんか。
(以下略)ミカより

 シュンとはクラスが違うから、この様子を後ろの席から覗かれるなんて
なことはない。しっかりと糊付けをして。乙女チックにかわいいシールな
どあちらこちらに貼り付けて。放課後にときめいて自然と顔がにやけてい
たら、授業を終えた物理の中村先生がミカの席にやってきて、
「一番前の一番真ん中の席で、堂々と内職できる度胸は認める。ただし、
内職は、家、帰ってやるように。授業中は授業を聞いてもらいたいなあ。
テストでそこそこ点数は取れるからと安心などしないように。わかってい
る授業でも、おもしろい雑談も交えていたりするので、しっかりと聞いて
もらいたいなあ」
 うだうだくどくどうるせえな、と聞いているふりだけをしていたら、ぎ
ろっと、中村先生、ミカを睨みつけた。だけど、正直、全然怖くない。だっ
て、中村先生はかっこいいというより、とてもかわいいんだもん。とろん
としちゃう。怒っている顔もまたかわいい。なんて、ふざけたことを考え
る。ちっとも表面上だけでも反省している風にみえないミカに呆れたのか、
中村先生は教科書やらをまとめて2年1組の教室を後にした。
 
 チャイムが鳴ると同時に、教室を後にした。3時30分の約束にはまだ
15分ある。だけど、シュンが先に着いている。なんてことがあってはな
らないから。急いで急いで、学校裏の公園へ。全速力で走ったのに、シュ
ンは先に着いていた、何食わぬ顔をして。
「遅かったな」
「え、まだ、30分になってないよ」
「授業が終わるのは3時15分だろ。そこから、すぐに来れるだろ」
 待ち合わせを決めたのはミカの方だったのに、待ち合わせの時間には遅
れていないのに、なんだかシュンに怒られているみたい。
「話しってなんだよ」
 まだ怒っているような口ぶりで、すでに何を言おうとしているのか気づ
いているのかもしれない。シュンのペースで話しが進められていきそうな
ので調子が狂う。もしかしたら、ミカよりもずいぶんと大人なシュンは、
すべてお見通しだよと、どぎまぎしているミカを愉快な気持ちでみている
のかもしれない。そんな恐怖に追いかけられていると、
「何、黙ってるんだよ。話しってなんだよ。火曜日だけど、今日部活あっ
たの思い出してさ。早く済ませてほしいのだよ。俺だって忙しいのだから」
 口の中にずいぶんたまっていた唾液をぐっと飲み込んで、高鳴る胸の鼓
動を感じながら、
「ずっとあなたのことをみてました。ずっとあなたのことが好きでした。
あたしと付き合ってください」
 何かの儀式のように深深と頭を垂れて、ミカはシュンのことばを待った。
待っていたのだけれども、そっとシュンの方を見ると、何食わぬ顔でブラ
ンコに揺られていた。
「ごめんね」
 すぐに謝ってしまう癖は、きっとこの頃からのものだ。どうすればいい
かどうしようもなくわからなくなったとき、謝ることしかできなかった。
謝るよりも感謝を告げる方がいいとは気づいているので、ようやく近頃は、
ごめんねよりもありがとうと告げている。何をどう言えばいいのかことば
に迷うというのは、幼い頃からのことで未だにきっといくつになっても、
迷っているのだろう。
「何、謝ってるんだよ」
「だって」
 でも、だって、そうだけど。逆説の接続詞でずいぶん逃げている。逃げ
ていることを相手は決してよく思っていない。そんなことばを聞きたくな
いからだ。耳にしたくないと気づいていても、どうしてもそのことばが口
をついてしまう。
「メガネ、外した顔みたいな」
「恥ずかしいわ。誰にも見せたことないのよ」
「恥ずかしがることではないよ。メガネ、外した顔、俺に一番に見せて」
 抵抗する気もなく抵抗する間もなく、シュンはミカのメガネを外す。ま
さかと思うよりも早く、くちびるが近づいて離れなかった。長くはない時
間がふたりだけのために区切られたふたりだけのための長い長い時間のよ
うな気がした。速く速くなっている胸の鼓動が伝わるのが照れくさくて、
そっと体と体を離れた。ことば数少ないままシュンは颯爽と
「俺、部活でるわ」
 この時ほど、シュンと同じ趣味があればと思ったことはない。ただいっ
しょにいたいからといって、全く面白くもない全く興味のない部活に入る
わけにもいかない。興味の無いものに興味をもつようにしてみても、どう
しても限界というものはくる。ただの食わず嫌いだったなら、心から好き
になることはできる。だけどやはり嫌いなものは嫌いだ。どこかこの頃か
ら、頑固者だったのかもしれない。
 手紙を渡し損ねてはいけないので、
「待って、これ、時間のあるときでいいから、読んでほしいの」
 少し微笑んでシュンはミカの眼を見て、
「ありがとう」
 そう言うと、公園を後にした。
 しばらく、シュンが座ったブランコに揺られていた。嬉しさともどかし
さと、ちょっとした哀しみに揺られていた。
 
 シュンは部活をふたつ掛け持ちしている。ひとつはミカの興味ない部活。
もうひとつは、ミカといっしょの部活。クラブが終わってから、シュンの
方からいっしょに帰ろうと声をかけてもらうことが何度かあった。ミカの
家の前まで来てもらったり。といってもミカの家は学校から徒歩1分。学
校の目の前にミカの家はある。最近時代の流れに逆らえなかったようで近
くの学校と母校のふたつが統合されて母校の名前が消えてしまうので淋し
い。目の前の学校はなくならないから、まだ救われた。シュンの家の近く
まで行くことも何度かあった。シュンは自転車通学でミカは徒歩なので、
シュンが自転車を押していっしょに歩いている。ドラマチックなふたり乗
りの夢はこの頃には叶わなかった。いっしょに帰っているだけでもしあわ
せだった。欲がなかったといえば嘘になるけれど、それだけでしあわせだっ
た。この瞬間が消えなければ。

 ある時シュンは何かをじっくり考えた後、
「今度、映画観に行かないか」
「いいよ。何か観たいものあるの」
「いや、ミカの観たいものをいっしょに行こうよ」
「そっか。じゃ、考えておくね」
 ちょうど、新聞記事の中で観たい映画を見つけていた。こんなしんみり
とした泣ける映画を誘っていいものかと迷った。もっと、メジャーなもの
にした方がいいのではないか。その方がシュンも喜ぶのかな。今でも、こ
の映画のタイトルを覚えている人は、10人中多分1人もいないと思う。
この映画の原作(小説)が学校の図書館にあって、観に行く前に読んでし
まって、このお話しをふたりして観たいなと強く思い、シュンを誘った。
あの公園で待ち合わせ。

 そういえば、あの日は朝からずっと雨でした。傘などふたり寄り添うに
は邪魔になってしまうとミカはわざと傘を持たずに家を出た。少々濡れて
もかまわないと思っていた。いや、始めから、うっかり傘を忘れてしまっ
たからシュン相合傘しようよ、と言うために持たずに家を出た。劇場に着
いて、シュンはジュースをミカはシナリオ及び解説本を買って。暗闇の中
でいつの間にかふたりは手をつないでいた。暗闇の中でいつの間にか手は
ほどけていた。相手を気遣うことも忘れて涙を拭きながら劇場を出たら、
暗闇の中で気づかなかったこと、シュンもひとみをうるませていた。帰り
道、この映画を誘ってくれてどうもありがとうとシュンは言ってくれた。
朝よりもますます激しくなった雨。途中で、ここまででいいわよと告げて
ミカは走って帰っていった。シュンの、おいちょっと待てよということば
を背にして。確かではないものを信じられなくなった瞬間。賑わう街をふ
たり歩いた。しあわせなのにどうしようもなく違和感が襲う。予感だった
のかもしれない。何かの前兆を感じ取ったのかもしれない。だから、そこ
からすぐに逃げ出したくなった。こんな瞬間は長く続かないのだと痛々し
い雨が桜を早く散らす雨が叫んでいた。

 案の定、その時はやってきた。
 いつもの公園に呼び出されて、
「俺、好きな人ができた」
「あたしの知っている人なの、好きな人ってだれよ」
「今は言えない」
「あたしのどこがいけないの。どこか言ってくれたら頑張って直すから」
 そんなことばが全く意味を持たないものだと気づくのはずいぶんと後の
こと。お菓子をねだる子どものように、離れていくシュンを引き止めてお
きたかった。
「嫌いになったわけではなくて。ただ、ミカよりも好きな人ができた」
 シュンが好きになった人が誰かわかるのはずいぶんと後のこと。あいに
く、彼女の姿をミカは知っていた、多少、ことばを交わしたこともある。
心の底から悔しくてならなかった。あたしではなくてあの娘が。どうして。
 そっとそっと、ひとひら舞い散る桜の花びらがあきらめを誘った。
「わかったわ、もう電話もしないから」
 シュンの姿をみているのが耐え切れなくなり、桜満開の公園を後にした。
 真夜中、桜満開の公園に来る。とても激しい雨の中。春とはいえまだ夜
風が肌寒い、雨が降っているので尚更。誰かいたら、こんな時間にこんな
場所で何やっているのだと思われるかしら、と思われそうだけれど、ここ
には誰もいなくて安心した。今だけはこの夜桜を独り占め。ふいに、頬を
滴るのは哀しみの涙ではなくて、雨のせいだ。そう思ってみても、やはり
哀しくなった。間違いだった気持ちなんてないと何度も何度も自分に言い
聞かせてみる。今、公園の街灯が照らしたのはシュンとシュンが好きになっ
た女。と思ったら消えた。こんな真夜中にこの公園に現れるわけもない。
照らし出されたものはきっと、あきらめをつけるためのスパイスだ。だん
だん体の芯まで冷え込んできた。風邪をひいてはいけないから、そろそろ
帰ろうかと涙を拭ったその時、急に雨と夜風が激しくなる。激しい雨風に
たくさんたくさん夜桜が吹かれていた。