マチルとマイコの物語

 彼らの関係をことばにするのは容易くはない。友人というには軽すぎる
し、恋人というほど束縛し合ってもいない。しかし、親友ということばは
どこか違っていた。
 互いに居心地のいい関係でいたのだ。それを壊したのは、マイコ。その
ときマチルはうろたえた。こんなことが起こるはずがないと考えていたか
らだ。そう、この関係は変わることがないと思っていた。ただし、それは
マチルにとってだけのこと。マイコは、少しずつ少しずつ2人の関係を破壊
しようと目論んでいた。

 とある町の外れにちょっとお洒落なイタリアンレストランがある。ゆっ
たりと流れているのはクラシック。そこそこに繁盛もしている。インター
ネットでお客さんがオススメをしてくれることがあるので、少し遠いとこ
ろからでも足を運んでくれる方が少なくない。
 ここで2人は出会った。アルバイトのマチルは彼女を見て、可愛い新入り
だなと思った。それがマイコ。学生同士の2人が仲良くなるのにそんなに時
間はかからなかった。といっても、仕事中だけの話。

 そういえば、2人きりでお茶しようと誘ったのはマイコの方からだった。
それは、出会って1ヵ月後のこと。
「マチルは素敵すぎるから、こんな誘いうんざりするぐらい多くあるでしょ」
と訊ねた後の彼の顔を、まだ脳裏に蘇らせることができる。
「誘われたことなんてないよ。誘って振られたことはあるけどね」
 悪戯っ子のように舌を出してみせたマチル。そのときすでにマイコは、
マチルを抱いているところを想像していた。マチルはきっとすぐに覚える。
どうすれば、マイコが喜ぶということを。そして、マイコはマチルを忘れ
られなくなる。それは、マチルにとっても同じである。
「ここから、少し行ったところに素敵な喫茶店があるの」
 そういって、「ブラックメモリー」にマチルを連れていったのは、桜が
待ち遠しい季節のこと。
「マイコ、ありがとう。こんなに美味しいコーヒーに出会ったことなかっ
たよ」
 マチルはブラックコーヒーがすき。アイスで飲むことは決してない。
という情報を、同じアルバイト先の主任から入手していた。
「喜んでもらえてよかったわ」
「また、いっしょにここに来ような」
「もちろんよ」
 それから、この店は2人の待ち合わせ場所となった。店の前で待ち合わせ
てどこかへ出かけようとすることが多かったが、たいていどちらかが早く
着きすぎてしまい、文庫本を広げてブラックコーヒーを啜っているという
パターンになる。そして、相手が店に到着しても、けっこう「ブラックメ
モリー」で長居をしてしまうというパターンになっていた。

 二年後。
「オレは許さないからな」
 ここはいつもの喫茶店。何度となく訪れている。というより、はじめて
のデート(ということばがふさわしいかは疑問だが)もこの店だった。無口
な、それでいて、いいタイミングで声をかけてくれるマスターが気に入っ
ていたのだ。
 冷たい炎を滾らせて怒っているマチル。だが、マイコはそんなこと関係
なかった。むしろ、美味しいブラックコーヒーを楽しんでいた。何も、マ
チルのことが嫌いになったわけではない。今まで通りにはいかないのだと、
伝えたいだけである。それが、うまくいかない。ただ、黙って黒い液体を
啜っていると、
「マイコ、聞いているのかよ」
「聞いているわ、マチル。あなたが何と言おうと、もう決めたことだから。
だから、仕方ないのよ」
「仕方ないって言ったってなあ。オレがいちばん怒っているのは……」
「『どうして一言、相談してくれなかったんだ』って言いたいんでしょ?」
「そうだ」
「マチルに相談したら、『やめろ』って言ったでしょう」
「そりゃ、そうだ」
「だから、やめたのよ」
 マチルは顔全体をくしゃくしゃにして、頭をぽりぽり掻いて、いる。
相変わらずのポーズ。その仕草がマイコには、とても可愛らしく思ってい
たときもあった。今は、決してそうではない。いや、正確にいうと、そう
思いたくないのだ。可愛らしい愛しいなんて、思ってしまったら、相手の
思う壺だ。いつまでたっても抜けられやしない。だから、マイコは自らス
トップボタンを押した。そうそう、目の前にあるブラックコーヒーにほと
んど手をつけていないマチル。悪い奴とマイコは嘯く。こんな美味しい飲
み物を冷めさせてしまうなんて。飲まないのなら、コーヒー以外を頼めば
よかったのにね。彼は、こりずに口を開く。
「オレのことが嫌いになった?」
「ちがう」
「じゃあ、どうして?」
「どうしてって。わたしたち、付き合ってた?」
「いや、ちがう」
「お互いに恋人がいたときもあったわよね」
「ああ、あった」
「彼女・彼の話をしあったこともあったでしょ」
「そうだったかもね」
「だったら、わたしがどこのだれといっしょになろうとマチルには関係な
いじゃん」
 マチルにとってはその言い草がとても気に入らなかった。関係ないこと
はない、と叫べない温厚な性格の彼。だが、このときばかりは我慢ならな
かった。といっても、ずずずっと椅子が擦れる音をさせて立ち上がり。そ
して、
「今日は帰る。だけど、また来週今日と同じ時間に、ここで待ってるから」
 と言い捨てて、五百円玉を残して店を後にするだけにすぎない。
 思わずマイコは微笑んでしまった。迫力のない怒り。馬鹿にする気なん
てのは到底ない。しかし、彼の言わんとしていることは、マイコの心をす
ぐに通り抜けていくだけだ。ぼんやりと彼女は思った。マチルはマイコに
頼りきっていた。友達だって彼女だっていただろう。しかし、彼にとって
マイコがいちばんだったのかもしれない。これをもっと、早く直すべきだっ
たのだ。マイコにとっては、ちがう。マチルと逢っていても、フィアンセ
を見つけることだってできたのだ。男友達(というより、飲み仲間がメイ
ンだが)もけっこういる。マチルのことはお世辞でも何でもなく素敵な
(少々とぼけているところがあるが)男性だと、はじめて会ったときから
思っていた。しかし、この人とずっといっしょにいるのは、ちがう。そん
な気がしていたのだ。ぼんやりとマチルとのことを思った。マイコはふい
に泣いている自分に驚く。悲しいことなんて何もないはず。むしろ幕引き
役を買って出たのだから、これでよかったと、一安心するはず。しかし、
なぜ。どうして。マイコは、泣き止むことができなかった。マイコは、マ
チルを痛いほど抱きしめていたあの瞬間をこの腕に思い出していた。

 そういえば、「お伽のお城」へ誘ったのもマイコの方からだった。マチ
ルは迷うことなく首を縦に落とした。
「本当にいいの? 長く付き合っている彼女がいるんでしょ?」
「いいっていっただろう。オレはマイコと、う、その、『お伽のお城』へ
行きたいんだよ」
「ありがとう。とっても嬉しいわ」
 メルヘンばりの名前のホテルへ、マチルは行ったことがないと言った。
それが事実だろうと偽りだろうと、そんなことはマイコにとっては関係な
かった。マイコはただ、想像通りにマチルが動くのか試してみたかったの
だ。もちろん、美味しい思いをしたいというのが大前提。マチルの彼女よ
りも。
 シャワーを先に浴びてくる、といいながらバスタオルの位置をすぐにみ
つけた。そんなマチルに少しマイコは驚いた。マイコの中のマチルは、ど
こか不器用で無頓着で無神経で意地悪で、だがとても優しい。ああ、そん
なことではなくて。ホテルに行き慣れていれば、たいていはバスタオルの
置き場所ぐらい頭に入っていても不思議ではない。あるいは、すぐに目に
ついたか。それは、驚くべきことでも何でもない。マチルは何にも知らな
いからだからいちいち教えてあげなきゃいけないと、マイコは思い込んで
いた。そもそも部屋に入ってまもなくシャワーを浴びなきゃならない理由
に思い当たらないなんて、はじめての日マイコは実は相当のぼせ上がって
いたのだろう。
 自分から誘っておきながら、だんだん居たたまれなくなってきたマイコ
にマチルは笑いかける。
「お風呂場、けっこう広かったよ」
「へえ、そうなんだ」
 まさか、「そりゃそうよ、ばっちり下調べしてきたんだから」とは言え
ない。言わない。
「せっかくだから、あとからいっしょに入ろうよ」
「う、うん。考えておくわ」
 余裕綽々なマチルに、マイコは緊張していた。だがさすがにみるみるう
ちに全身に一気に電気が走り、この身が自分のものではなくなったと思い、
今だけはマチルに捧げようと感じていた。そしてマチルの誘導尋問により、
思いがけないことを口走っていた。
「すきよ」
 マイコは確かにそう口にしたのだという。彼女には一切覚えがない。
「うそよ、そんなこと。ねえ、忘れて」
「マイコ、オレもすきだ」
 いつのまにか湯船はバブルバスになっていた。そこに2人、向かい合っ
ている。家庭用浴槽とちがって、ホテルのそれは足を十分に伸ばしてしま
える場合もあるのだ。
「ねえ、せっかくだからゆっくりしよう」
と囁かれ、腰が砕けたマイコはマチルにお姫様抱っこされて、バスルーム
へと辿り着いたのだった。
「すきだ」
 すぐに覚えるという読みは外れてはいなかった。マチルはしっかり愛し
いその瞳でマイコを見つめ、そして、くちづけを。マイコは、見つめられ
ると弱い。そのうえ、撫でられると弱い。
「アイツのことは気にしなくていいから」
 さて意味がわからない。「彼女と別れてください」とか、「彼女よりわ
たしをすきになって」なんて言っていないのに。思ったとしてもマイコは
決して口に出さない。口唇から息が漏れ、それから声となったそのときか
ら、すべてが崩れてしまうことを知っているから。もう、崩れ落ちるのは
いや。思いのたけを伝えることの無力さをもう、思い知ったから。伝えな
きゃ伝わらないが、伝えたところで伝わるとは限らない。

 それから2人は幾度となく「お伽のお城」へ通った。マチルから誘う方が
若干多かった。長い間マチルが声をかけずにいると、マイコは痺れを切ら
して「行きましょうよ」と告げる。他のホテルを探索してみなかったのは、
マチルがここを気に入ったから。それだけだ。飽きると思うよりも、行き
慣れた居心地のよさが勝つ。マチルがここへ行こうと言ってくれれば、そ
れだけでよかった。
 マイコはマチルを試そうと色々仕掛けていたが、思い通りの反応だった
にも関わらず、心が乱れてならなかった。「お伽のお城」にはじめていっ
た日以降、マチルは日毎ラブメールをマイコにご丁寧に届ける。贅沢にも、
それが疎ましくなっていた。それなのに、抱かれるごとにマイコはいつし
か本当にマチルをすきになっていた。しかし、それは自分自身へのカモフ
ラージュにすぎない。3ヶ月ばかり付き合った彼氏がフィアンセになった
のだ。彼氏とは、知人たちの集まる飲み会(合コンともいう)で知り合った。
マイコは一目惚れ。あとから聞くと(おべんちゃらかとも思うが)彼氏もビ
ビビビビときたそうだ。
 マチルが彼女と別れた、という話は聞いたことがない。だったら、わた
したちが離れ離れになっても何の問題はないだろうと、マイコは思い浮か
べる。
「大事な話があるんだけど」
 電話でマチルに伝える。
「電話じゃ言えないことか?」
「そう。時間取れるなら、逢いたいんだけどさ」
「わかった。それじゃ明日の15時にいつも場所で」
 約束の時間の10分前に来るのは、お互い同じだった。だからマイコは
14時50分に着くように家を出た。しかし、待ちくたびれたような面持ちで、
いつもの窓際の席でマチルが待っていた。

「オレは許さないからな」
 そう言って「ブラックメモリー」を後にしたマチルと、もう会うつもり
はなかったマイコ。真なる気持ちに蓋をすることの辛さがないわけでもな
い。いちばん居心地のいいところからは身を隠さなければ、姿を消さなく
てはならないのだ。いちばんなんて、そんな恵まれていることはあっては
ならない。マイコは、自分の決めたことを言い聞かせていた。本心を奈落
の底へ封じ落とすのは、それで万事上手くいくと思うからだ。
 マチルは覚えていなかったのだろうか。そんなはずはない。それしか頼
んだことがなかったのだから。それともわざとそうしたのだろうか。どち
らにしても複雑な気持ちでいっぱいだ。マイコは、彼の置いていった500円
に600円を足して、レジへ向かった。
「マスター、ごちそうさま。また明日来ますね。ひとりですけど」

 読書の時間にのみ利用するようになったマイコの姿を、マチルは時々見
かけている。しかし、まだ声をかけてはいない。いつかきっといつかはま
た、あのくりくりとした瞳をこっちに向けてくれるだろうと願っている。
「マイコ、何読んでるの? オレは、マイコがオススメだって言っていた
本を今、読んでるよ」